珠洲に残る珠洲焼の足跡
発掘された珠洲の中世
珠洲市における代表的な中世の集落遺跡として、飯田町遺跡、南黒丸遺跡があげられます。
飯田町遺跡は飯田町の字西寺町一帯に所在しており、平成元年(1989)の発掘調査で、平安時代後半から室町時代中頃にかけての掘建柱建物(ほったてばしらたてもの)が総柱建物(そうばしらたてもの)を含め12棟見つかりました。いずれも溝で区画された敷地内に建てられており、建物に付随したと見られる井戸も20基確認されています。井戸底からは水溜に使用した珠洲焼の甕(かめ)、曲物(まげもの)、結桶(ゆいおけ)が出土しています。これらの堀建柱建物や溝は、15世紀後半になると現在の町割りと重なるようになることから、飯田町の町並みがこの頃に整えられたことがわかります。
飯田町遺跡の西に鎮座する春日神社は、弘長元年(1261)に再興したと伝えられており、若山荘※の総鎮守として本所(ほんじょ)九条家・領家日野家の氏神である大和春日神社の分霊を勧請(かんじょう)したとされています。日野家の雑掌※本庄氏が、飯田郷上戸村を領有していることから、若山荘の政所(まんどころ)が春日神社周辺に所在した可能性があり、若山荘の在地経営を考えるうえでも飯田町遺跡は重要な遺跡です。
また、飯田町遺跡の北に接する飯田城は中世の城郭跡で、その城主については、南北朝時代末期に能登守護職となった畠山(はたけやま)氏の守護代の遊佐氏のほか、長氏、飯田氏らの名が伝えられています。このうち遊佐氏は若山荘を基盤として、在地領主的支配を進めたことから、飯田町遺跡周辺も本庄氏から遊佐氏が領有する地域となり、戦国時代以降は飯田城主の城下町へと変化したしたのではないかと思われます。
南黒丸遺跡は宝立町南黒丸に所在する遺跡で、平成8(1996)・10(1998)年の調査で、五間×七間の大型堀建柱建物をはじめとする堀建柱建物群や、井戸、土坑、溝等が見つかりました。出土遺物には、13世紀から15世紀にかけての珠洲焼の甕・壺・擂鉢(すりばち)などの日常雑器や水瓶(すいびょう)・燭台(しょくだい)のほか土師器(はじき)、陶磁器、木製品などがあります。また、特筆される遺物に、石川県内ではほとんど出土例がない中世の平瓦(ひらがわら)と丸瓦があり、瓦葺(かわらぶき)の建物が存在したことが推測されます。大型建物の存在とあわせると、本遺跡が若山荘荘官(しょうかん)の在地経営の拠点となる可能性もあり、若山荘の預所(あずかりどころ)打波氏や、田所本庄氏との関連が注目されています。 (三浦ゆかり)
珠洲焼生産の始まり
中世の焼き物は、古代からの素焼の技術で作られた土師器(はじき)系土器、古代の須恵器(すえき)の技術を継承した須恵器系陶器、平安時代に東海地方で焼かれた灰釉陶器の技法を受け継いだ瓷器(しき)系陶器に大きく分けられます。
珠洲窯は須恵器系陶器の一種で、若山荘が成立した康治2年(1143)とほぼ同じ平安時代末期、その生産が始まりました。創業にあたっては瀬戸内地方の須恵器系陶器(魚住など)と東海地方の瓷器系陶器(渥美・常滑など)の影響を受けたと考えられています。
珠洲焼は能登半島の突端という地の利を生かし主として海上輸送で、13世紀(鎌倉時代)には越前から東北地方まで日本海側で流通し、その後、14世紀(室町時代)には北海道南部まで広がり、日本列島の約四分の一を商圏とするほど栄えました。能登半島沖から新潟県・山形県沖にかけて、“海揚がり”と称される珠洲焼が引き上げられています。これらは焼物を輸送する際に途中沈没した船の積み荷で、当時の珠洲窯の繁栄を物語っています。また、新潟県や秋田県で珠洲焼とよく似た製品を焼いた窯が発見されています。
こうして栄えた珠洲焼も15世紀後半には急速に衰え、まもなく廃絶しました。
製品は他の中世窯と同様、貯蔵に使われた甕・壺と調理に使われた鉢が主です。しかしながら同じ須恵器系陶器の魚住窯が周辺に様々な焼物が競合するため、もっぱら甕・壺・鉢を生産したのに対し、周辺に競合する窯のない珠洲窯ではこれらに加え、経筒などの宗教用具や中国陶磁をコピーした四耳壺といった多様な製品を焼いています。珠洲焼の窯跡は現在、40基ほどみつかってはいますが、その多くは有力な寺社であった法住寺(宝立町)や高勝寺・高座宮(三崎町)の周辺にあり、そうした勢力が生産や流通に関わっていたと考えられます。 (加賀 真樹)
- ※若山荘(わかやまのしょう)……能登国最大の荘園。康治2年(1143)、荘園として公認された。
- ※雑掌(ざっしょう)………………律令制下に雑務をつかさどった者。または、中世荘官の一つで、本所・領家の代理人として荘園の管理や訴訟事務を取り扱った者を指す。
参考文献「珠洲の歴史」
